◇IB Japaneseでは、PoetryやDramaが、Prose fictionと並んで一つのジャンルとして重視されています。2011年度以降に新しくなったIB Japanese:Literatureにおいては、上記3分野に加えて、Prose non-fictionも避けては通れないジャンルになりました。これについてはいずれ書くとして今回はDramaというジャンルについて少し述べてみます。
◇ホメーロスやシェークスピアを持ち出すまでもなく、西洋におけるPeotryやDramaの歴史的意義は疑いようもありません。それは、個人的な娯楽として存在し得る小説などが持ち得ない、共同体がまとまるための役割を有しているからでしょう。さらに、韻律があることも、視覚ではなく聴覚が知的活動の中心であった時代に、大きな役割を果たしていたに違いありません(シェークスピア作品がBlanc Verseという一種の韻律を持った劇であることは有名です)。
◇では、現代における演劇の役割とは、どういうことなのでしょうか。いわゆるナレーターという存在のない、舞台上で演じることを前提とするDramaは、小説よりも制約の多いジャンルと言ってよいでしょう。ある作家がそのDramaという形式を選ぶとき、Prose fiction(例えば小説)を選ぶこととどのように異なるのでしょうか。
◇安部公房には、「砂の女」という小説の傑作があり、これもIB Japaneseの作品リストには含まれているのですが、特撮でも使わない限り、舞台では再現しづらい設定となっています。それに対して、「友達」では、舞台は主にアパートの部屋や公園といった至極日常的な場であり、その日常性が、見知らぬ集団が一人暮らしの男の部屋を占拠していくという非日常性な状況を浮き立たせる構造になっています。
◇いわば、常識的なセッティング(場面設定)があるから、非日常的な状況がくっきりと明確に伝わってくる仕掛けなのです。それは同時に、Dramaの舞台設定の日常性が、状況の非日常性を、カムフラージュしているとも考えられます。福島第一原発の事故の模様をお茶の間のテレビを通して見ている私たちのようなものと言ったら飛躍しすぎでしょうか。
◇いや、飛躍してよいのだと思います。民主主義の限界について議論する一方で、私たちは、こういう文学的な思考実験を多いに参照し、飛躍するべきだと感じます。『友達』から私たちが学ぶことは、多数者や世間の隣人愛が時に暴力的であること、私たちの社会においては、不条理も文脈によって道理になっていくこと、など様々あります。ただし、解釈だけでは到達できないことは、そのような状況を変えるためにどう行動を起こすかなのでしょう。その力が文学にあるかないかということまでは、IB Japaneseでは問われていません。