『10年後の世界を生き抜く 最先端の教育』茂木健一郎、竹内薫

竹内氏が開校した「YES International School」というフリースクールは、日本語と英語とプログラミング言語を重視するトライリンガル教育を掲げているという。こういう学校が日本の市民によって運営されているということにまず勇気づけられた。

“『10年後の世界を生き抜く 最先端の教育』茂木健一郎、竹内薫” の続きを読む

『国際バカロレアとこれからの大学入試改革ー知を創造するアクティブ・ラーニング』福田誠治著

2015年12月に出版された福田誠治氏の「国際バカロレアとこれからの大学入試改革」は、豊富な資料に基づいた、IBについての概説書です。日本の大学入試改革に触れているのは第1章のみで、第2章以降は、日本が学ぶべき教育のあり方がIB にあるという前提のもと、IBの歴史やカリキュラムの説明がなされています。

福田氏は都留文科大学の学長で、教育学者でもあります。2017年に国際教育学科を新設し、そこでIB教員の養成も行うことを想定しているのですから、この本を書くことが事前調査という意味を兼ねているのかもしれません。

個人的には、IBと日本の教育を一覧表で対比している部分(p 143)が、学習指導要領や教科中心主義、検定教科書の問題をすっきりと示しているようで気に入りました。つまり、日本では、カリキュラムの設計自体が「知識伝達型」になってしまっていて、教員が「受動的な学習者」として想定されてしまっていることが問題なわけですね。妙なところで納得してしまいました。

本書は、巻末の注釈における参考資料も充実しているので資料的意味は高いのではないでしょうか。ただし、大学入試改革についての即効的な知見を期待するとガッカリするかもしれません。

 

加藤周一著 『日本人とは何か』と森有正著『いかに生きるか』

IB Japaneseスカイプでの通信指導をしている生徒が、パート4で加藤周一『日本人とは何か』と森有正『いかに生きるか』を選んできたので、比較してプレゼンテーションをするためのトピックを一緒に考えてみた。

パラパラとページを繰りながら、私が気になってしまうのは、Ⅱ章の「天皇制について」であるが、生徒の方は、その章にはあまり興味が向かない様子。もっと庶民のことが書かれているところがないかと、「普通の日本人」が論じられている箇所を探していた。

基本的に私が担当するIB Japaneseサポートでは、Self taught(自学)をサポートするということにしているので、生徒自身の気づきを尊重している。私の方から「こうしなさい」的なアドバイスはしていない。今回は、生徒が共通点を探しあぐねていたので、共通点ばかりではなく、対照的な点に気をつけてみてはどうかなという手がかりのみを指摘して、次回までの宿題ということにした。

『いかに生きるか』の方は戦後30年経った時代に書かれている本だが、戦後70年を迎えた今の時代に読んでも内容はまったく古びていない。というか、日本の課題は相変わらず真の民主化だったり個人の確立だったりと、何も進歩していないことに愕然とする。

次回生徒とどんな対話ができるか楽しみである。

日本人とは何か (講談社学術文庫)  いかに生きるか (講談社現代新書)

 

哲学的対話の必要性

◇最近の出版状況を見ていると、「哲学」とか「思考」という言葉をタイトルに入れた書籍が目立つ。特にビジネス書において顕著だ。グローバル化が進むにつれ、日本流儀のビジネス常識では通用しなくなりつつあるということだろうか。お互いに腹を割っていれば何とか分かり合えるさと思っているのは日本人特有の感覚で、相手はビジネスをする上で「分かり合う」ということの必要性をそもそも感じていないかもしれない。そんな違和感から哲学の必要性に向かうのではないかと勝手に夢想している。

◇こちらは教育関連の書籍であるが、マシュー・リップマンという「Philosophy for Children (P4C)」の創始者の本を、例によって斜め読みしている。

◇探求の共同体(原著タイトル「Tinking in Education」では、批判的思考と創造的思考の相反する性質が書かれていて興味深い。ニュアンスが分かりやすい英文の方を引用しておく。

Critical thinking often moves in the direction of the construction of algorithms that eliminate the need for judgement, while creative thinking may move in the direction of heuristics such that all that counts is success and not the means by which it is achieved. Algorithms, in the extreme, represent reasoning without judgment, while heuristics, in the extreme, represent judgment without reasoning. (p.275)

◇当然、すぐれた教師はこの二つの側面をうまく統合していくことになる。

「獄中」日記 米英東亜侵略史の底流 大川周明 著

◇第2章の「米英東亜侵略史」を読むために図書館で借りてきた。「日米開戦の真実」という書名で小学館が佐藤優氏の解説を加えて出版しているのだが、なぜ書名と著者名を変える必要があったのだろう。やはりA級戦犯というイメージが売り上げに響くからだろうか。あるいは、より多くの読者に訴えるためには、大川周明を前面に出さない方がよいと判断したのかもしれない。

◇いずれにせよ、米英への開戦後わずか1週間という時期に放送されたラジオの講義録とは思えない程冷静で論理的な口調(筆の運び)は、戦後教育で勝手に作り上げた戦前戦中のイメージの修正を迫られるほどである。

◇考えてみれば、開戦の年から私の生年まではわずか20数年。その後に生きた年数よりもはるかに短い。その割には、戦前や戦中のことを知らなすぎる。大川周明の著書を頼りに大東亜戦争の意味をもっと考えないと、現代を読み解くことなどできないと痛感。

「シティズンシップ教育論」 バーナード・クリック著 関口正司 監訳

◇副題に「政治哲学と市民」とあるのは、訳者が付け加えたものだろうか。この副題が見事にこの書の本質を突いている。著者のバーナード・クリックは政治学者であるということが、この書物の基本的な性格を決定づけているのだ。

◇つまるところ、シティズンシップ教育は政治教育なのである。「政治リテラシー」というシンプルな概念がストンと腑に落ちた。バーナード・クリックがデモクラシーをどのようにとらえているかは、本書の「監訳者あとがき」に簡潔にまとめられているが、その見方は、日本の教育現場において一般的にみられる態度とは大きく異なる。

◇デモクラシーは多数による統治なのではなく、あくまでも少数者の権力行使による統治なのだという冷徹な見方をクリックは示している。その一方で、統治権力の公正な行使のために多数者の監視が必要であり、また統治権力も危機に対処するために多数者の支持が必要であるという観点から、能動的な市民育成(=シティズンシップ教育)を提唱しているのである。

◇イギリスでは、2000年にシティズンシップ教育施行令が施行され、全国共通カリキュラムの適用対象となったようだが、日本では「受験に公民は不要」とばかり、どんどん公民が軽視されていったところに問題がありそうだ。しかも「公民」で教える内容が政治リテラシーと言えるかどうかも甚だ疑問である。

ネルソン・マンデラ氏 死去

◇アパルトヘイトも南アフリカ共和国も、どこか遠くの出来事のように感じていた。今でもそうかもしれない。現代社会のシステムとは無縁のような感覚・・・。

◇しかし、ヨーロッパから見れば、南アフリカは歴史的にも地政学的にも、アジアより遥かに深い関係にあるし、だからこそアフリカの政治状況に敏感に反応するのであろう。

◇結局は欧米のメディアやフィルターを通してネルソン・マンデラの偉大さを理解するようなところが(少なくとも私には)ある。オバマ大統領をして「マンデラのいない過去数十年の歴史を想像するのが難しい」と言わしめた影響力からネルソン・マンデラの価値を値踏みするようなところが・・・。

◇Civil rights や Citizenship についての感覚が育っていないのかもしれない。抵抗するべき勢力がよくわからないのが日本という国のおかしなところだ。考えてみれば、アメリカの公民権運動などといった世界史的知識も非常に危うい。なぜ Civil rights に「公民権」などというよそ行きの訳語をあてたのであろう。Civil Warに至っては「南北戦争」だし・・・。

◇「市民」という言葉から毒気を抜いて、「善良なる」市民というニュアンスだけを残そうとする策略でもあるのではないか。だから、ネルソン・マンデラや、ガンジーや、キング牧師といった偉人の功績が今ひとつしっくり来ないのではあるまいかと勘ぐりたくなるほど、Civil disobedience的な概念にリアリティがないと感じてしまう。

◇だからというわけでもないが、「自由への長い道」を慌てて近所の図書館で借りて読んでいる。囚人になってすら、本来敵対する相手である看守を味方に引き入れようと説得を試みる姿勢など、決して派手ではないが地道に信念を貫くところは、確かにネルソン・マンデラの凄いところだ。しかし、教科中心の今の日本の教育システムでは、こういう偉人伝が担っていた価値観の伝達はほとんどできない。一人一人の先生の意識や、生徒の関心に委ねられている。グローバルな舞台で活躍するには、実はこういった教養こそが問題となるのに。

「30秒で学ぶ哲学思想」 編著 バリー・ローワー 監訳 寺田俊郎

◇この1冊で哲学の全貌を知ろうなどというのは土台無理だとしても、幅広い時代と領域からトピックが選りすぐられていて、考えをまとめる際の Reference として活用できそうである。例えば、「ラッセルのパラドックスとフレーゲの論理主義」「カントの定言命法」「ソクラテスの問答法」「ハイデガーの無」・・・といったように、哲学者の名前と概念がセットになっていることで、さらに深く調べる際のインデックスができるのがありがたい。

◇キンドルで英語版も併せて参照すると、さらに活用の範囲が広がるように思える。というのも各章についているGlossaryには、哲学で使われる基本的な用語の定義が書かれていて、これがまた思考を刺激するのだ。例えば、「論証」は、英語では “argument” であるが、 “A collection of premises offered in support of  a conclusion” とシンプルに定義されている。つまり、 premises を積み重ねて conclusion に至れば、それは “argument “だということが明確に分かるというわけである。 もちろん中にはpoorな argument もあり得るから、 口論という意味での “argument ” があることも腑に落ちてくる。

◇どのページからでも気ままに読めるのも良い。こういう読み方で哲学を気楽に話題にできる方が、眉間にしわを寄せて人生を論じるよりも、楽しい。

「状況に埋め込まれた学習」 ジーン・レイヴ、エティエンヌ・ウェンガー著

◇教育における「参加」ということの意味を考えているときに検索にかかってきた本。佐伯胖氏が翻訳していることも気になって、手にとってみた。

◇著者が用いている正統的周辺参加(Legitimate peripheral participation : LPP) とは、何とも分かりづらい概念であるが、中心的で安定的な価値に向かうのではなく、あらゆる可能性を秘めていて、多様な参加が有り得るという意味で「周辺」という用語を使用しているようである。

◇学習は「参加」であるということを主張しているという意味では、当初予想した内容であった。しかし、その「実践の共同体」が「教室」である必要がないという意味では、今自分が関わっている仕事に応用するにはラジカル過ぎると感じた。あくまでも現時点の私の「状況」での評価であり、もっと広い視野と長いスパンで考えれば、再読の必要に迫られる予感がするので、自分へのメモの意味でここに書いておく。

「現代語訳 義経記」 高木卓訳

◇先日の連休に鞍馬寺に行き、無性に義経の本が読みたくなりました。弁慶との出会いにまつわるエピソードや、頼朝に追われる身となって平泉に下ることなど、ところどころしか記憶になく、しかもうろ覚えだったので、この際しっかり読んでおこうと思って現代語訳を購入しました。

◇アマゾンで届いた本は、予想以上の分厚さだったので、正直怯みましたが、読み始めたら、これが止まらない面白さ。久しぶりに本を読みながら道を歩きました。

◇もちろんこのストーリーは伝説であり、史実かどうか分からない部分が多いですが、冒険物語の傑作であることは間違いないでしょう。日本にこういう冒険物語があったのですね。ドン・キホーテやハックルベリーフィン、海底二万里といった、西洋文学では確固たる位置を占めている冒険物語が、日本にはないのでは・・・という先入観を持っていましたが、考えを改めます。日本文学はやはりすごい。