思考のツールと思考の中身

◇言語は思考のツールと言われたりするが、この「ツール」という比喩がしばしば誤解される。思考の中身が大切であって、ツール(言語)は所詮「思考を媒介する手段」に過ぎないものであるかのように捉えられてしまうわけだ。

◇しかし、外国語を使ってある概念を表現する場合に、どうしても変換できないニュアンスというものは残るし、異なる言語を使うことで性格が変わることもあり得る。それほど、言語というツールは思考そのものに影響を与えるものである。

◇一方で、コンピュータなどの情報メディアはどうか。通常PCは、何かを便利にするためのツールだと考えられている。したがって、なるべく人間の側がそれを意識しないように透明な存在となるべきだと思われているのだが、qwertyのキーボード配列がすでに身体の一部のように馴染んでしまっているように、情報メディアも人間の身体あるいは思考プロセスの一部となっていく側面がある。したがって、WINDOWSとMAC、あるいはタブレットとスマホのどちらがよいかといった議論は意味がなく、それぞれのデバイスやOSに合った作業や思考プロセスがある。

◇もちろん読書をしながら余白に何かを書き込んだり、新聞をハサミで切り取ってスクラップしたりすることにもそれぞれの意味がある。スキャナーがどれほど進化し、Evernoteがどれほど使いやすくなっても、スクラップブックを使うことで得られる感覚の代替物にはならないであろう。

◇しかし、新しもの好きの私は、気になるアプリがあるとすぐに試してしまう性質だ。少しでも時間を節約しようとして、結果的に時間を無駄にしている典型的なパターンだと思うのだが、いつか自分にぴったりの知的生産環境が築けるのではないかと夢想している。

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