「余命3ヶ月」のウソ 近藤誠著

◇患者本人に余命宣告をするようになったのは、いつからどういう理由によってだったのか。ふとそんな疑問が沸き起こってきました。

◇近藤氏によれば、余命宣告が、その後の高額な治療を承諾させる、いわば脅しのような働きをしているということです。確かに治療が結果的に失敗した事例をいくつも読んでいるうちに、医療現場に対する不信感を募らせることになるかもしれません。

◇しかし、どの治療がベストなのかということについては、結局患者本人が何を信じるかの問題だと感じます。近藤氏を信じるのも一つですし、自分がかかっている医師を信じ、強い薬の副作用に負けずに治療を続けていくというのも選択です。

◇余命宣告をされるという極限状態にあって、そのようなことを自ら選択するというのは想像するだけで耐え難いと感じます。私なら余命宣告などされたくないですが、それは許されないことなのでしょうか。

◇この本の内容の真偽ということよりも、生きるということのコンセプトをこそ考えさせられます。

 

「宮台教授の就活原論」 宮台真司著

◇「すぐには役立たない就活マニュアル」という最終章の見出しが物語っているように、マニュアルを求めてしまう社会状況を批判的に浮き彫りにしながら、「うまく生きる」知恵を提示しようとしている書です。

◇「ひとかどの人物=スゴイ奴」が大勢いた頃に麻布中高に在籍した著者ならではのエピソードが盛りだくさん語られています。そういえば、私が某中学受験専門塾の仕事に関わっていた1990年代中ごろ、受験生(の保護者)の志向が少し変わったと感じられた時期がありました。東大合格者数における私立高校の、公立に対する圧倒的優位が話題になり、東大を初めとする難関大学への進学実績が私立中学の唯一の価値であるかのように一部の親に見えてしまった時代です。

◇麻布はそのような風潮を物ともせずに、校風を維持し続けました。その結果「自由すぎる」麻布を敬遠した保護者も多くいたと記憶しています。あれから20年近くが経過して、当時の空気は、今度は会社選びという場で繰り返されているように見えます。「無難」や「安定」にすがろうとする気持ちが、むしろリスキーだということを、自分も子を持つ父親としてよくよく考えないといけないなと感じます。

『一般意志2.0』 東浩紀著

「一般意志は政府の意志ではない。個人の意志の総和でもない。そして単なる理念でもない。一般意志は数学的存在である」

◇ルソーの『社会契約論』に対する東氏による解釈は痛快です。これまで得体の知れない感じがつきまとっていた「一般意志」がすっきりと頭に入ってきました。

◇特殊意志と全体意志を、ベクトルとスカラーの比喩で説明していたことが、私には大きなヒントになりました。一般意志はすなわち方向を持ったベクトルの和であり、全体意志というのは、方向のないスカラーの和であると。

◇そのように考えてみると、特殊意志がみんなで議論して「一般意志」になる必要は当然なく、それぞれが勝手なことを言っておればよいと気楽になれますね。その集計はネット技術がしてくれるのですから。

◇ちょっと連想したのが、英作文の指導でよく利用していることです。今や、ある言い回しが文法的に正しいかどうかを文法書によって判断(断罪)するよりも、Googleで検索する方が合理的です。件数を見ればどの程度「一般的」な表現かを知ることができますよね。正しいとか間違っているという捉え方ではなく、どの程度一般的なのか、例えば定冠詞よりも不定冠詞の方がこの表現では一般的であるようだなどといった、判断のための装置を手にしている時代なのです。

◇声の大きい人が勝つような「民主主義」ではなく、新しい時代の民主主義の可能性が見える書です。

『国力論』 中野剛志著

◆TPP反対論者の中野氏の理論的背景がよくわかる本です。経済自由主義とマルクス主義という二つの政治経済学の間にあって、経済ナショナリズムという系譜は、これまでまともに論じられてこなかったという主張が書かれています。

◆経済ナショナリズムは、「一国の国富=貨幣の量」と考える重商主義と混同されがちですが、世界経済を「ゼロ・サム」ゲームと見なさない点において、また、保護貿易と産業政策を恒久的に肯定しているわけではないという点において異なるといいます。

◆アメリカ建国の立役者の一人であるハミルトンや、スコットランド啓蒙派のヒューム、さらにヒュームの盟友で、一般には経済自由主義者と考えられているアダム・スミスなど、これまで「経済ナショナリズム」という文脈で語られてこなかった「有名人」たちが、実はこの系譜に位置しているということを明らかにしつつ、「ステイツ」ではなく「ネイション」の統一と連帯の重要性を訴えています。

◆TPP賛成論者がその根拠とする自由貿易は、無制限に許すべきではなく、利潤の基盤である「ネイション」を優先させるべきであるということでしょう。もっとも、TPP絡みの中野氏の発言は、もっと強烈でインパクトがあります。

 

『サンデル教授の対話術』 マイケル・サンデル/小林正弥 著

「哲学は私たちを慣れ親しんだものから引き離し、悪い市民にする」という一節にハッとさせられました。

もちろん、ここで「悪い市民」というのはレトリックですが、「善良な市民」とか「小市民」などという紋切り型のイメージで「市民」を固定化して捉えていた自分に気づかされます。

社会を維持する最低限のルールは守るにしても、「変だ、おかしい」と感じることに声を上げないと本当の「市民生活」はやってこないし、声を上げた以上は批判にさらされる責任を引き受けないといけません。

そこの覚悟がないと「対話」は単なるスタイルや流行にとどまってしまいますね。

『日本の「安心」はなぜ消えたのか』 山岸俊男 著

表題の本の出版は2008年ですが、2011年度一橋大帰国枠入試の小論文で、同じ山岸俊男氏の『信頼の構造』が出題されていたこともあり、再読しました。山岸氏の著作では、『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)がよく知られています。

日本人の「お上意識」や「空気を読もうとする態度」を考える上でヒントになると思い、パラパラとページを繰っています。「よそ者と身内」に対する意識の違いは、国会での与党と野党、あるいは与党内の対立図式を思い起こさせます。

アメリカでも、民主党VS共和党はありますが、オバマ大統領がオサマ・ビンラディン殺害を発表した後の議員たちのスタンディングオベーションを見ていると、やはり日本の政治家が国会でしている原発をめぐる議論とは違うと感じます。

責任追及と責任逃れに終始する国会のやり取りを見ていると、そもそも日本に民主主義が馴染むのかどうか、少なくともアメリカ型を目指しても無理だろうという気がしてきます。