「できたこと」に着目しよう

◇やらなければいけないことが増えてくると、「To do list」にある何かを片付けていくことが日常になり、その日にできなかったことが新たな「To do list」の項目となって残っていくことになる。明日はあれをしよう(しなければ)という思いでその日が終わることになるのだが、これはあまり健康的ではない。するべきことがすべて片付くことなどあり得ないからだ。最初からするべきことを少なくできればいいのだが、いただいたお仕事を断るほど優雅な身分ではないので、結果的にするべきことは膨れあがっていく。

◇せめて1日の終わりくらいは、その日にできなかったことを忘れて、嬉しかったことに感謝するように心がけたいと思う。かけがえのない人と一緒にした食事、豆を挽いて淹れたコーヒーの豊かな味わい、仲間にもらったメッセージやさりげない配慮など、わずかな時間だったかもしれないけれど、そういう瞬間をしばし振り返ってみることは、日々仕事に追われる感覚を持つよりもずっと明日に生きる希望につながるのではないか。

思考のツールと思考の中身

◇言語は思考のツールと言われたりするが、この「ツール」という比喩がしばしば誤解される。思考の中身が大切であって、ツール(言語)は所詮「思考を媒介する手段」に過ぎないものであるかのように捉えられてしまうわけだ。

◇しかし、外国語を使ってある概念を表現する場合に、どうしても変換できないニュアンスというものは残るし、異なる言語を使うことで性格が変わることもあり得る。それほど、言語というツールは思考そのものに影響を与えるものである。

◇一方で、コンピュータなどの情報メディアはどうか。通常PCは、何かを便利にするためのツールだと考えられている。したがって、なるべく人間の側がそれを意識しないように透明な存在となるべきだと思われているのだが、qwertyのキーボード配列がすでに身体の一部のように馴染んでしまっているように、情報メディアも人間の身体あるいは思考プロセスの一部となっていく側面がある。したがって、WINDOWSとMAC、あるいはタブレットとスマホのどちらがよいかといった議論は意味がなく、それぞれのデバイスやOSに合った作業や思考プロセスがある。

◇もちろん読書をしながら余白に何かを書き込んだり、新聞をハサミで切り取ってスクラップしたりすることにもそれぞれの意味がある。スキャナーがどれほど進化し、Evernoteがどれほど使いやすくなっても、スクラップブックを使うことで得られる感覚の代替物にはならないであろう。

◇しかし、新しもの好きの私は、気になるアプリがあるとすぐに試してしまう性質だ。少しでも時間を節約しようとして、結果的に時間を無駄にしている典型的なパターンだと思うのだが、いつか自分にぴったりの知的生産環境が築けるのではないかと夢想している。

海外生からの年賀メール

すっかりこちらのブログをご無沙汰しておりました。
新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

IB Japaneseをかつて受講していて現在はドイツの大学に通っている大学生からメールで新年の挨拶が届き、あらためて海外でも新年を祝っている日本人がいることを意識しました。
私がその昔暮らしていたのは常夏のシンガポール、あるいは冬と夏が逆転する南半球のオーストラリアでしたから、正月らしさを感じるということはほとんどなく、せいぜい大晦日の紅白歌合戦をケーブルテレビで観ることで年末年始の雰囲気を無理やり感じようとしていた覚えがあります。

海外だとクリスマスや旧正月の方が長期の休暇となることが多く、日本のような年末年始の雰囲気を感じることは少ないのではないかと思いますが、休暇までグローバルスタンダードにすることもないでしょう。海外で働く日本人は年末年始に長期休暇を取って一時帰国をすることが、長く現地でサバイバルするためには必要だと思います。

IBにおける評価(2)

IBでは、PYP/MYP/DPを実践する学校(IB校)に対して評価に関する考え方の指針を提示している。いくつかあるうちの二つを挙げてみる。

学校は、評価に関する考え方、方針、および手順を学校コミュニティー全体に伝えること

学校は、生徒に対して自分の学習成果物の評価に参加し、その評価を振り返るための機会を与えること

前者では、次の3項目の評価が含まれ、その評価方針を学校コミュニティーが恊働して作成するプロセスを重視している。

・評価目的(何をなぜ評価するのか)
・評価原則(効果的な評価を特徴づける要素は何か)
・評価実践(どのように評価するのか)

また、後者では、自己評価をするために必要となるメタ認知をどのように育成するかといったことについて解説をしている。

要するに、評価それ自体が目的(ゴール)ではないということ。評価を通して成長することが大切なのだという考えが明確に伝わってくる。

IB における評価

IBディプロマの評価の仕組みは、日本の教育現場でも参考になる点がいくつかある。

中でも興味深いのは、学校内部で行う評価(Internal Assessment)とIB本部で行う評価(External Assessment)が分かれている点である。タームごとに渡される成績表は、基本的にInternal Assessmentである。最終スコアが確定するまでは暫定的な評価(Predicted Score)ということになる。

この仕組みでは、評価者である教師は、自分の評価の妥当性についてチェックを受けることになる。いくら生徒に良い評価を与えてそれによって人気を取ろうとしても、IB本部が出す最終スコアとかけ離れていては最終的に評判を落としてしまうわけだ。

一方、IB本部が出す評価もまた、生徒からのアピールによって評価し直すことがある。もっとも、再評価しても最初の評価が変わらない場合は手数料が発生するので、やみくもにアピールをするわけにはいかないのだが…。

評価するものが絶対者にならないよう配慮されているのだろう。

オンライン学習ツールの今後

◇ 最近オンラインで学習するためのアプリやオーサリングツールが次々と登場している。海外ばかりではなく、日本のベンチャーも頑張っている。しかし、ネットを検索していると、やはりまだまだアメリカが数歩リードしているようだ。

◇ Poppletというサイトではマインドマップのようにマテリアル同士を関連させることが簡単にできる上、マテリアルはテクストに限らず、画像やビデオを簡単に貼り付けることができる。

◇ Docs Teachでは、歴史のマテリアルがたくさん用意されており、それを教師が授業に合わせてピックアップし、組み合わせて生徒に提示することができる。それぞれのマテリアルにはブルームのタキソノミーに基づいたレベルが明記されており、どういうタイプの授業に適切な素材かということが判断できる仕組み。
 

◇ Rukukuでは、マテリアルを自分で簡単に作成管理するためのプラットフォームを提供している。ビデオなども手軽に貼り付けられ自由度は高い。しかし、まだ立ち上がったばかりの企業のようで、機能はまだ限定的である。私はこの企業を日経の記事によって知ったが(気づけば…身軽に起業 大卒以外7割、世代広く )、ルククと表記されている企業のスペリングが分からず、検索エンジンで探すのに苦労した。固有名詞はカタカナではなく英語で表記するべきだと思う(関係ないけど)。

◇ オンライン学習環境を作ることを目指して私がスタディエクステンションを設立した2007年頃は、オンライン学習は、コスト面や品質面での課題が数多くあり、まだまだ実用的とは言いがたかった。実際、双方向型ホワイトボードや電子会議室といったツールもよほど高価なものを入手しないと、機能もデザインもあまりぱっとしなかったが、このところのツールの充実ぶりには本当に驚く。

◇ ただし、使用する際の技術的ハードルが低くて且つカスタマイズしやすいといった決定版は出ていない。カスタマイズしやすいのは、Moodleのようなオープンソースであるが、多くの人が参加しないとオープンソースであることのアドバンテージが活かせない。その意味では日本人にとって英語の壁を打ち破ることが先決ということになるかもしれない。

IB Japanese 受講生が驚嘆のスコア!

◇2013年11月にIBディプロマの最終試験を受けた生徒からお礼のメールが届いた。「おかげさまでJapaneseは7が取れ、全体のスコアは44でした。正直、Japaneseが一番不安だったので良かったです」という文面。私からすれば、スカイプ授業を行っている段階でJapaneseが最高グレードの7になるだろうことはほぼ予想していたので、Japaneseのスコアには驚かなかったが、驚嘆したのはトータルスコアの44である。海外で指導を行っていた16年前から今まで、IBを受講した生徒から毎年スコアを聞いているが、44というのは初めて。ちなみに45がIBDPの最高スコアである。日本人で40を超えるスコアが取れる生徒はほとんどいない。

◇少し前の話になるが、とあるインターナショナルスクールのカウンセラーから、IBDPコースの生徒の最終スコアと進学先大学の一覧表を見せてもらったことがある。42以上の生徒は、アメリカならIVY League、イギリスならOxbridge、あとは、生徒の出身国のトップ校がちらほらといった具合で、名門大学の名前がずらりと並んでいたのを思い出す。日本人生徒の名前はそのスコアレンジには見当たらなかった。リストのずいぶん下の方、30台後半にようやくTokyoやKeio、Sophiaといった名前とともに日本人がちらほらと見つかるくらいであった。

◇44のスコアを取った生徒は、中学1年生からニュージーランドに単身留学をし、6年間を過ごしてきた。オーストラリアやニュージーランドの単身留学生というのは、アウトドアを楽しむのんびりしたライフスタイルなどの影響で、受験勉強などにおいて不利だと考えられてきた面もあるのだが、考えを改める必要があるようだ。中学段階から留学してIBのようなガッチリとしたプログラムで学べるのであれば、かえって、勉強に集中できる環境だと言えるかもしれない。

◇HL/SLでそれぞれどの科目を選択したか、Extended EssayとTheory of Knowledgeの評価がどの程度だったかということもメールで教えてもらったのだが、詳細はいずれ、本人にインタビューを行うなどして、もっときちんとした形にして皆さんにお知らせしたい。

「マウス―アウシュヴィッツを生きのびた父親の物語」 アート・スピーゲルマン著

◇ IB Language A (Literature)では、翻訳作品を2つ、リストから選ぶことになっている(以前はWorld Literatureと呼んでいたが、2011年以降にスタートした新しいIB Languageでは、Literature in Translationと呼んでいる)。

◇私がふだん教えているIB Japanese Aを自学している生徒の中には、IBディプロマをスタートしたばかりの段階で「罪と罰」のような大作を、大作と知らずに選ぶ生徒もいる。もちろん、それで最後まで読んでくれればこちらは一向に構わないのだが、期の途中で挫折し(というかIBディプロマの忙しさに気づき)、作品変更の相談を受ける場合も多い。そういう時にお勧めするのがこの「マウス」である。

◇何しろ漫画であるから、読むのに時間はかからない。1時間もあれば読み切ってしまう。ストーリーも表題からほぼ想像がつくので、時間を節約したい生徒にはうってつけである。

◇ユダヤ人の視点でホロコーストが描かれているにも関わらず、センチメンタリズムを排した冷徹なタッチであるのがこの作品の文学的評価を高めている理由の一つであろう。生徒がよく注目するのは、ユダヤ人がネズミ、ドイツ人が猫、ポーランド人がブタとして描かれている点である。ある民族を動物として戯画化するという手法は、解釈によっては差別につながりかねないので扱いが難しいけれども、当時多くのユダヤ人を抱えていたポーランドの状況を考えつつ、「追う追われる」という関係にある猫とネズミに関係のないブタを利用した作者の意図を考えてみるのも、エッセイのテーマとして面白いかもしれない。

「獄中」日記 米英東亜侵略史の底流 大川周明 著

◇第2章の「米英東亜侵略史」を読むために図書館で借りてきた。「日米開戦の真実」という書名で小学館が佐藤優氏の解説を加えて出版しているのだが、なぜ書名と著者名を変える必要があったのだろう。やはりA級戦犯というイメージが売り上げに響くからだろうか。あるいは、より多くの読者に訴えるためには、大川周明を前面に出さない方がよいと判断したのかもしれない。

◇いずれにせよ、米英への開戦後わずか1週間という時期に放送されたラジオの講義録とは思えない程冷静で論理的な口調(筆の運び)は、戦後教育で勝手に作り上げた戦前戦中のイメージの修正を迫られるほどである。

◇考えてみれば、開戦の年から私の生年まではわずか20数年。その後に生きた年数よりもはるかに短い。その割には、戦前や戦中のことを知らなすぎる。大川周明の著書を頼りに大東亜戦争の意味をもっと考えないと、現代を読み解くことなどできないと痛感。

「シティズンシップ教育論」 バーナード・クリック著 関口正司 監訳

◇副題に「政治哲学と市民」とあるのは、訳者が付け加えたものだろうか。この副題が見事にこの書の本質を突いている。著者のバーナード・クリックは政治学者であるということが、この書物の基本的な性格を決定づけているのだ。

◇つまるところ、シティズンシップ教育は政治教育なのである。「政治リテラシー」というシンプルな概念がストンと腑に落ちた。バーナード・クリックがデモクラシーをどのようにとらえているかは、本書の「監訳者あとがき」に簡潔にまとめられているが、その見方は、日本の教育現場において一般的にみられる態度とは大きく異なる。

◇デモクラシーは多数による統治なのではなく、あくまでも少数者の権力行使による統治なのだという冷徹な見方をクリックは示している。その一方で、統治権力の公正な行使のために多数者の監視が必要であり、また統治権力も危機に対処するために多数者の支持が必要であるという観点から、能動的な市民育成(=シティズンシップ教育)を提唱しているのである。

◇イギリスでは、2000年にシティズンシップ教育施行令が施行され、全国共通カリキュラムの適用対象となったようだが、日本では「受験に公民は不要」とばかり、どんどん公民が軽視されていったところに問題がありそうだ。しかも「公民」で教える内容が政治リテラシーと言えるかどうかも甚だ疑問である。